「大発見」の思考法 山中伸弥、益川敏英【読書記録】+京大の成績評価の話

最近とても面白い本を読んだので紹介させてください。

こちらの本です。

2011年に初版出版の本ですが、今読んでも納得できることばかりですし、自分の仕事について考えさせられる内容です。

どんな本か

山中さんと益川さん、2人のノーベル受賞者による対談がまとめられた本です。

このお2人の対談というだけですでに面白そう。

■内容(「BOOK」データベースより)

トップクォークの存在を予言しノーベル賞を受賞した物理学者と、二十一世紀最大の偉業といわれるiPS細胞の生みの親。世界が注目する二人が初めて語り合った。大発見はどうやって生まれるか。生命の神秘はどこまで解明できるのか。考えるとは、感動することだ―。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

益川/敏英
1940年愛知県生まれ。名古屋大学理学部卒業、同大学院理学研究科修了、理学博士。京都大学名誉教授、京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学KMI研究機構長。2008年「CP対称性の破れ」の起源の発見によりノーベル物理学賞受賞。同年文化勲章受章 

山中/伸弥
1962年大阪市生まれ。神戸大学医学部卒業、大阪市立大学大学院医学研究科修了、医学博士。京都大学iPS細胞研究所長。世界に先駆けてマウスおよびヒトiPS細胞(人口多能性幹細胞)の樹立に成功し、再生医学に新たな道を切り開いた。2009年ラスカー賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

どんな人におすすめか?

自分の進路に迷ったり、自信が持てなくなっているときにぜひ読んでほしい本です。

中高生でも、大学生でも、社会人でも、どんな立場であっても何かを感じる事ができると思います。

あの研究者でも、紆余曲折があって苦労があって、でも必死でやってきたんだ、という
(ごく当たり前だけど気づけない)ことが良くわかります。

印象的な言葉

「無駄」が僕たちを作った

「大発見」の思考法(文春新書)

一見無駄なことの中に大発見がある。
これはさまざまな研究者、科学者の方が言っていますね。

個人的には心の底から同意する考え方です。

最近、効率化が最重視される世の中になってきていると感じており、色々思うところがあります・・・。

(益川)「宿題も真面目にやらず、いつもフラフラしていた僕みたいな人間が生き残れたのは、あの時代しかなかったと思う」

「大発見」の思考法(文春新書)

益川氏は小学生の頃、宿題をやらなさすぎて、成績がとっても悪かったそうです。
あのノーベル賞受賞者が最悪の成績を取っていたという事実に、ちょっと親近感を覚えますね。笑

これも個人的にとても共感していて、

私が中高生の頃、
どの科目も綺麗にノートを取って言われたことを期限に遅れずにやる子が一番先生に好かれていました。
テストの点数はよくなくても、成績はそこそこ良かったです。
色んな人に褒められていたし、私は単純にその子のことをすごいなぁと思っていました。
自分にはできないことを普通にやっていたので、尊敬していました。

一方私は、ノートぐちゃぐちゃ、言われたことは適当にやって自分のやりたい参考書を内職しまくり、期限はいつも破る、学校主催の学習プログラムを欠席するという
模範とは程遠い学生でした。幸いテストの点数は良かったので成績はまあまあでした。(内申点は終わってたと思う)
それでも私は希望の大学に行けましたし、大学に入ってからも自由にやりたいことができました。

という個人的な事情もあり、
私は大発見はできていませんが(笑)、益川氏の発言には共感します。

(山中)「今は効率が最優先される社会ですが、一見遊びに見えたり、無駄に見えたりすることの中に、実は豊かなものや未知なるものがたくさん隠されているかもしれないですね」

「大発見」の思考法(文春新書)

最近では言われたことをきっちり「こなす」人が優秀で、皆そうあるべきだ、という風潮がありますが、
その風潮で本当にいい研究はできるのでしょうか?大発見が出るのでしょうか?

そうは思えませんよね。

でも現実として、現在の教育政策はみんな同じであることを強要するものが多いですね。

例えば大学。

大学には「職業訓練校」としての役割が求められ、文系的な学問や基礎研究は不要だという議論まで出てきています。

(文系的な学問という括りはやや乱暴ですが、便宜上こう表現しますね)

100年後の人類を救う技術はこのような一見不要に見える学問の中から出てくると思います。セレンディピティ的なやつですね。

個人的な感想(超自由な京大でも、だんだん制度が改悪されている話)

参考ですが京都大学でもいろいろなことが改悪されています。

私が1, 2回生の頃(2013年〜2014年)は一般教養の授業は誰でも聴講可能で、二重登録も可能でしたが、

2014年?以降(正確な年度は忘れました、すみません)はカードリーダーに学生証を読ませないとダメになりました。

つまり興味のある授業があってもそのコマに必修科目が重なっていると取れないんですね。

(いや必修科目の講義に行け、っていうのがまともな意見ですがw)

あと一番最悪なのが「キャップ制」「GPA」です。

これも正確な年度は忘れましたが確か2015年以降?に新設された制度です。

キャップ制とGPAの導入はほぼ同時でした。
(GPAというのは成績評価システムのことです。成績が点数となって表示されます。
これまで京都大学ではその評価システムがなかったのです、笑。自由すぎますね。)

キャップ制とは、「半期に取れる授業の数が決まっている」というものです。上限が決まっているので、それ以上の講義に登録できません。

キャップ制がなければ、全部のコマを埋めて単位を取り切るという荒技ができますので、残りの期間に留学やら研究やら自分のやりたいことができます。最高ですよね。とにかく授業に打ち込む期間と、それをアウトプットする期間を分けて、自分でメリハリをつけることができると思います。

しかし、1つ1つの講義に集中してもらう、という理由でこのキャップ制度ができてしまいました。
GPAの点数を上げたいからでしょう。
(GPAはグローバルな成績基準ですので、大学にとっては重要な指標のようです・・・)

講義に集中できるかどうか、配分をどうするか、くらい自分で選べるわ!って感じですよね。笑
学生の自由にすればいいと私は思います(というか学生は全員そう思ってるはず・・・)

大学の話が長くなってしまいましたが、要するに日本の教育政策に疑問を呈しています、ということです。

この本を読んでその危機感がさらに強くなりました。

私はすでに社会人で、1会社員ですが、何か出来る事がないか模索したいと思っています。

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